山形大生死亡事件
119番通報に関する会話分析の視点からの所見

山形大学の学生大久保祐映さんが下宿先で遺体で発見される.残された携帯電話の最後の通話記録が119番通報だった.この通話のなかで,大久保さんは救急車出動を要請していた.が,結局救急車は来なかった.このやりとりをめぐり,今年(2013年)になって,山形地裁で裁判が始まった.

昨年,この通話が原告(大久保さんの遺族)側の弁護団により公開されているのを,ネット上でたまたま見つけた.分析的に取り出せることが,たくさん含まれていた.早速,西阪研究室でいつもお世話になっている小宮友根と早野薫の両氏と本格的に分析作業を行なった.この分析が朝日新聞山形版の記事として取り上げられたのをきっかけに,その分析結果について原告弁護団からいくつかご質問をいただく機会があった.それを踏まえて,今年の1月,さらに分析を重ねた.その結果を,全部でA4の用紙20枚ほどにまとめたものが,原告弁護団から裁判所に提出された.

確かに,「[病院に]一度電話をしてから,タクシーを呼ぶなりして,向かうようにしてください」という通信員の「指示」に,大久保さんは「はい」と答えている.だから,大久保さんは救急車の要請をしなかった,もしくは要請を撤回したというのが消防署および山形市の言い分のようだ.もちろん,このような理解は成り立つし,実際,この通信員はそのように理解したのだろう.

しかし,この通話の問題は,そのような理解の可能性にあるのではない.この理解が成り立つこと(あるいは別の理解のありうること)を主張しても,この問題に対する社会学的な(いや慎ましく「会話分析的」というべきか)貢献は,おそらくゼロだろう.私たちが見出したのは,この通話全体において,通信員および大久保さんとの間に一貫して「構造的な理解の齟齬」(この質問が,あるいはこの返答が,通話全体のなかでどのような構造的な位置にあるのかに関する理解の齟齬)があるということだ.だから,通信員の側にどんな理解が可能であったとしても,それはこの「構造的な齟齬」のうえに成り立っていたという事実こそが,重要である.

この齟齬が構造的なものであるかぎり,その責任は,大久保さんではなく,119番通話の管理者の側にあると考えるのが,一般市民としての感覚である(さらに言えば,大久保さんと近しかった方たちからすれば,通信員がプロフェッショナルとしてもう少しこの構造的齟齬に敏感であってくれたら,と思うかもしれない).もちろん,日々救命に携わる通信員たちの活動を貶めるつもりは,まったくない.この通信員も,こんな通話管理システムのなかで毎日人命にかかわる決定を強いられていたという意味では,システムの犠牲者というべきだろう.[2013年6月 西阪 記]

山形119番通報に関する会話分析の視点からの所見

山形119番通報に関する会話分析の視点からの所見 その2

山形119番通報に関する会話分析の視点からの所見 その3

山形119番通報の詳細書き起こし[かな漢字版]





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