マクロ構造的特徴そのものを語ること

[以下の文章は、2002年7月13日に早稲田社会学会のシンポジウム(テーマは「複雑性とマクロ-マイクロ問題」)における発言である。シンポジウムそのものは、争点もわりとはっきりして、面白かった。以下の文章は、かなり雑駁なもので、細かい点でどれだけ説得力があるかわからないが、一つの視点は提示できていると思う。]

「無視された状況」

かつて「無視された状況」という小さな文章のなかで、E. ゴッフマンは、社会と言語の関係を考えるとき、たとえば、話し手(もしくは聞き手)の「社会的属性」を考慮に入れるといったお決まりのやり方が、唯一のやり方ではないことに、注意を促した。「語ることは、社会的に組織されている。ただし、単に、どんな人間がどんな言語でどんな人間に語りかけるかということが問題なのではない。相互承認のもと儀礼に適ったやり方でおこなわれる行為の小さなシステム、すなわち社会的な出会いとして、語ることは組織されるのだ」。ゴッフマンが言おうとしていることは、こういうことだ。たとえば、かつてW. ラボフが、社会的経済的階層上の位置(一つの社会的属性)をパラメータにとり、その階層上の位置と「r」音の出現頻度の相関を調べた。そこに有意な相関がみられるかぎり、「r」音の使用は、たしかに「社会的」であるといってもよい。しかし、どのような「社会的属性」をもった人間がどのような表現をもちいるかといったことだけが、言語使用の「社会性」であるわけではない。ゴッフマンによれば、とにかく複数の人間が居合わせているという事実自体が、言語使用にとって決定的に重要なのである。

ある人が一定の文を構築していくというような、きわめて基本的なことからして、そうなのだ。つまり、一つの文が構築されること、このことは、相手がそこにいるという事実と無関係に、なにか「頭の中でおこなう操作」の結果であるわけではない。簡単な例を見ておこう。これは、ラジオ・カウンセリング(1994年9月28日NHK第一放送)の一部で、Bがアドバイザーからアドバイスを受けるに先立って、番組進行役のCに対しBが相談の内容を説明している部分である。


B: で、待ち合わせしたところが、あのー地域から出たことがない子だもんですから
C: はい
B: あのー合流できなくて
((1. 2秒の沈黙))
B: あのー待ち合わせしたところでですね
C: ええ、ええ、ええ
B: 合流できなくて、((中略))で、7時すぎくらいに、まあ、挙げ句のはてに帰ってきたっていう……

ここでBが語ろうとしていることは、自分の「子」が日曜日に野球の試合に出かけたのだけれど、「待ち合わせ」場所でチームメートと「合流でき」ず、結局「(夜)7時すぎに帰ってきた」ということだ。さて、Bの発話は「乱れ」ている。途中に1.2秒間の沈黙があり、しかも、その沈黙の直後に、その直前に述べられたことがほぼ同じ表現で繰り返されている(「待ち合わせしたところで合流できなくて」)。しかし、この「乱れ」は、いわば組織的な乱れである。

たとえば、ふつう電話をとって「もしもし」と言ったのに相手が黙っていたなら、もう一度「もしもし」と言いたくなる。上の沈黙もこれと似ている。つまり、相手の反応を期待していたのに、その反応がなかったとき、同じ表現が繰り返されるのだ。こう見るならば、Bにとって、かの沈黙はCからの応答の「不在」を意味していたことがわかる。この沈黙の意味は、(遅くとも)Bが同じ表現を繰り返したとき、Cにもわかったはずだ。だからこそ、繰り返しが行なわれた時点ですぐに、Cは「ええ」をはっきりと3度も言ったのだろう。

ところで、なぜあの場所で(文末でもないのに)BはCからの反応を期待したのか。それは、BとCが「Bが自分の息子の問題を語る」という活動に(それぞれ話し手と聞き手として)参加していることに、関わっている。待ち合わせ場所で「合流できな」かったということは、この報告の展開のなかで、一つの「事件」としてまとまりをもちうる。しかも、この事件は、もう一つの事件(「7時すぎに帰ってきた」)のためのコンテクストになっている。実際、「7時すぎに帰ってきた」ことだけならば、なんら「事件」でないにちがいない。「合流できな」かったにもかかわらず「7時すぎ」まで帰らなかったからこそ、「事件=問題」なのだ。だから、Bが先に進むためには、まずは「合流できなかった」という点がCによって受け止められなければならなかったのである。

ここで示されているのは、一つの文の構築が、それ自体徹頭徹尾、相互行為的だということである。「待ち合わせしたところが、地域から出たことがない子だもんですから、合流できなくて、((中略))7時すぎくらいに挙げ句のはてに帰ってきた」という一文を話し手(B)が言い切るために、彼女は、その文を適切なやり方で聞いてくれる聞き手が必要だった。このような意味で、この一文の構築は、その場に居合わせた複数の人びとの協同の産物である。

ゴッフマンは、いままで「無視されていた」社会的領域が、それ自体独自の研究対象になることを指摘した。この領域は、いわゆる「マクロ」構造上の特徴(ゴッフマンが「社会的属性」と呼んでいた特徴、たとえばジェンダー、社会階層、ナショナリティなど)と区別された「マイクロ」な領域といえるのかもしれない。しかし、「無視された状況」の指摘のうちには、無視しえないもう一つの重要な点がある。

たとえば、言語行動上の観察可能なパターンを説明するのに、「社会的属性」に訴えるというのが、上のラボフのやり方だった。このとき、社会経済的階層は、パラメータとして与えられていて、それ自体が独自の現象として探究されることはない。わたしが問いたいのは、たとえばある人が「低所得者である」という事実がいかにして事実として成立しているのかということである。


[注1]この点については、西阪仰『相互行為分析という視点』(金子書房)の第二章も参照のこと。そこでは、言語行動上のパターンの説明にナショナリティをパラメータとして用いるやり方に対して、ある具体的な相互行為において、ある人が「日本人である」こと・「外国人である」ことがどのようにして成立しているのかを示してみた。

マクロ構造上の特徴そのものを語ること

最初の事例に戻ろう。この事例は、すでに述べたように、ラジオ・カウンセリング(RC)の一部であり、「RCである」という特徴はこのやりとりの、いわば「マクロ構造」上の特徴である。BとCはそれぞれ「問題を語る者」および「問題を聞く者」として出会っており、この出会いのなかで、その出会いに合わせてBの発話はデザインされていた。しかも、CはBにとって「初対面」である。初対面のCに対して「問題の訴え」となるように、Bの発話はデザインされているのだ。つまり、Bは、「合流できな」かったことと「7時すぎに帰ってきた」ことを併置し対照化することで、「問題」を語っている。それだけでない。Cの横にアドバイザーが控えていること、ラジオを通して不特定多数の者たちがこのやりとりを聴いていることも、Bの発話デザインに影響を与えているかもしれない。この様々な受け手に合わせてBの発話はデザインされている。

重要なのは、RCという枠組みがまずあって、それによってその内部のやりとりのあり方がおのずと決まるわけではないという点だ。たしかに、RCには、それ独自のルールがあり構造があり、そのなかで独自の課題が追求される。RCは、個々の場面を貫いて、繰り返し観察できる特徴をもった、一つの社会的な制度である。しかし、他ならぬこの場面がRCとして組織されるのは、そのつどの具体的なやりとりとして以外にはありえない。一つの具体的な場面がRCであるのは、そこに参加している当人たちが、自分たちの発話を一定の仕方でデザインし、自分たちのやりとりを一定の形に組織していくからなのだ。

実際、最初の事例において参加者たちがそれぞれ「問題を語る者」と「問題を聞き取る者」としてそこに登場していること、ひいては、そのやりとりが「RCである」ということ、このことは、参加者たちが発話を協同でデザインしていくなかで、参加者たち自身により協同で志向されている。すなわち、「RCである」という特徴は、参加者自身によって協同で生きられた特徴であり、協同で生きられた特徴としてそのやりとりの組織上の特徴となっている。マクロな社会構造上の特徴は、いわば、相互行為の組織的特徴として語ることができるのだ。

マイクロな相互作用がマクロなパターンを産み出す?

以上述べてきたことが、いわゆる「マイクロな相互作用からマクロなパターンが産出される」という考え方と、いかにかけ離れているかを、駆け足で示しておきたい。そうすることで、上に述べたことの「社会学的な」意味が明らかにできればよいと思う。

この考え方は、丸山孫朗が1963年に「セカンド・サイバネティックス」のなかで打ち出した、いわゆる「ポジティブ・フィードバック(PF)」という考え方によって原型が与えられているように思う。蟻塚の例がわかりやすい。ある地域の蟻は、きれいな階層構造になった蟻塚を作ることが知られている。重要なのは、当の蟻たちはそんなものを最初からイメージとしてもっていない点である。彼らの建築には、建物全体についての「表象としてのプラン」がない。つまり、砂つぶと砂つぶをくっつける接着剤に「フェロモン」が含まれていて、たまたま別の蟻が近くにいると、その匂いをかぎつけて寄ってくる。もしこんどは同じ場所で二匹の蟻が同じことをすると、一匹よりも強い匂いを出すから、より強く他の蟻たちを引きつけることになる。このようにして、最初は均等に蟻が分散していた状態だったのが、そこに偏りが生じ、さらにその偏りが増幅し(PF!)、すなわち、一定の場所にどんどん砂が溜まっていって、やがてそこに塔ができていくというわけである。同じような塔が何箇所かできると、こんどは、塔が高くなるにつれて、蟻たちは別の塔から発する匂いにも引き付けら、塔が上に伸びると同時に、別の塔のほうにそれぞれ傾いていき、アーチができる。同じことが繰り返されて、アーチの上にアーチが重なり、最後には、立派なビルディングができてしまうのだ。

ここには「表象としてのプラン」が予めあるわけではなく、「フェロモン」がいわば「触媒」になって、たまたま近くに別の蟻がいたといった偶発的な事柄から、全体の構造が産出される。このような「触媒作用」によるPFという考え方は、単にそのような現象があるということだけではなく、第一に、いわゆるネガティブ・フィードバックにもとづく自己制御システムのモデルの失敗(目標状態を維持するために逸脱を修復する自己制御システムという考え方は、目標状態からの逸脱をそもそもどう定義するかという点で頓挫してしまう。また目標状態を「表象としてのプラン」とみなすならば、いわゆる階統的プラン・モデルの失敗から免れえないように思う)を回避できるようにみえるし、実際、第二に、マクロなプランをもたずに、「あくまでも局所的な偶然的条件に依存しながら」作動するシステムは、工学的にも優位であるようにみえる(たとえば、ブルックスのロボット)。第三に、上のRCの事例においても、局所的な偶然的な条件に依存しながら相互行為のトラジェクトリーは産出されており、BもCもその産出されたトラジェクトリーについてのマクロなプランに従っていたわけではない。その意味で、マクロなパターンがマイクロな相互作用から産出されていたようにもみえる。しかし、前節まで述べてきたことと、PFの考え方は、じつは根本的に異なる。

論点は、二つある。もっとも重要な点は、こうだ。およそ社会的な活動は、その活動に参加している当人たちが、その活動がどのような活動であるかを知っているかぎりにおいて、特定の活動でありうる。たとえ電話の録音を聞いて、なるほどそれがRCの一部であるように聞こえるとしても、やりとりをしている当人たちが、それをRCであると思っていなければ、そのやりとりはいかなる意味でもRCではありえない。たしかに、先の断片の会話者たちは、プランに従って相互行為をしているわけではない。しかし、かれらは、自分たちのやりとりが、他でもない「RCである」ことに志向しており、その志向を発話のデザインをとおして互いに明らかにし合っている。つまり、RCが社会的活動であるかぎり、実際のトラジェクトリーがどのようなパターンになるにせよ、それが「RCである」という、いわば「同一性の判断」(P. ウィンチ)が参加者自身によってくだされえなければならない。ところが、PFの考え方のなかに、「同一性の判断」の位置はない。

第二に、もともと語りたかったのはマクロ構造的な特徴そのものだった。その意味では、PFの考え方が語ろうとしているのは依然、マクロ構造上の特徴そのものというよりは、マクロ構造上の特徴の産出メカニズムである。マクロ構造上の特徴があるという事実そのものが、独自の社会的現象として語られることはない。


[注2]PFの考え方は、ご存知のように、社会学の伝統のなかでは、すでにトマス・シェフがラベリング論を展開するなかでもちいている。これについは、別のところで論じている。たとえば、上野直樹・西阪仰『インタラクション』(大修館書店)。

[注3]オートポイエシスについては、ここではあえて論じない。オートポイエシスは、解釈のしようでは、ガーフィンケルのリテレクシビティの議論と重なり合うように思う。しかし、このような解釈を示したところで、あまり意味があるように思えない。いずれにせよ、会話の「自己組織」と免疫システムの「自己組織」は組織原理がまったくちがう。

一つのアイロニー

最初に示したようなやり方に対して、次のような不満がしばしば寄せられるように思う。それでもマクロな構造からの、あるいは全体社会からの(とりわけ参加者本人たちに気づかれないような)影響を考慮しなければ、実のところそこで何が起こっているのかを捉えそこなうにちがいない、と。しかも、そのような不満をもつのは、わりと普通に実証主義を自認している人が多いように思う。しかし、これは、ある意味で皮肉な話だ。というのも、アドルノとポッパーの間での小さなやりとりから始まった、かの有名な「ドイツ実証主義論争」で、「経験的諸事実の、全体性による媒介」を主張したのは、他ならないアドルノのほうだったからだ。経験科学はその仮説の妥当性を、観察・実験により集められた経験によって吟味する。一方、経験はすべて、社会の「全体性」に媒介されている。ハーバーマスは、アドルノの議論を引き継ぎながら、たとえば、次のように言っている。「行為の状況を定義する諸条件は、全体性の諸契機としてある。そしてその全体性とは、死せるものと生きるもの、事実と価値、価値中立的な手段と価値的な目的といった二項に二元的に分割できるものではない。そんなことをすれば、結局その全体性は失われてしまうだろう。……社会的コンテクストとなっているのは、文字どおり生活の連関である。そこでは、ほんとうに小さな破片が、全体と同じくらい躍動的であ(り、したがってまた脆いものであ)る。だから、手段のうちには、特定の目的にとっての合目的性がすでに宿っており、目的そのもののうちには、特定の手段との対応がすでに宿っているのだ」。論点は、いくつかあるだろう。第一に、マクロ構造的な特徴を(独立の)パラメータとしておくならば、逆に、それぞれの特徴が「全体性」の契機であることが見失われてしまう。第二に、一見価値中立的にみえる科学的手続き、論理的推論、観察等は、(それ自体価値的な負荷のある)「生活の連関」のなかではじめて、その意味をもつことができる(だから、科学的手続きに従っているかぎりで「客観的」でありうると考えるのは、単純すぎる)。第三に、生活の連関は(因果的な連関ではなく)意味の連関としてある。第四に、経験的な「破片」は生活の全体的な連関でのみその意味をもつことができる。ということは、逆に、「破片」を経験することは、その「破片」を「破片」として含む生活連関全体を経験することでもあるはずだ(生活連関が意味の連関であるとき、それ以上の連関がその「破片」に影響していると想定することに、どれだけの意味があるのか)。

もちろん、先に示したやり方は、アドルノやハーバーマスのやり方とはまったく異なる。しかし、「破片」のなかから、むしろ「積極的に(ポジティブに)」マクロ構造上の特徴を語ろうとするやり方である。アドルノやハーバーマスのやり方のどこに不満があるかは、ここではあえて述べなくてもよいだろう。「破片」が「全体性」の部分であるならば、その「破片」をできるだけ詳細に観察するなかから、それがどのように「全体性」に媒介されてあるのかを、言いかえれば、そのなかで生活連関全体がどう経験され志向されているかを(すなわち、生活連関全体の経験の組織化を、あるいは、相互行為のなかで生活連関がどう生きられているのかを)、できるだけ厳密に見てみたいと思うのだ。



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